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熊野大社は南陽市宮内に位置するが、宮内という地名の語源が熊野大社の神域を示す”宮の内”であるように、門前町の中心であった。宮内と熊野大社の歴史の概要は以下のとおりです。 |
| 806(大同元年) |
熊野大社についての最も古い記事「平城天皇の勅命により、紀州熊野権現の御神霊をお遷し申し上げ、再興した。」 |
| 1300頃〜1450頃(南北朝時代〜室町初期) |
南北朝中期頃より伊達氏の領地となり、熊野大社も伊達氏の信仰を受ける。熊野大社が明確に歴史に姿を現す。伊達政宗(九代儀山)時代の「坊中覚」に20ヶ寺院と1神主の熊野一山組織を記す。→この頃には門前町がぼつぼつ成立したと推測できる。 |
| 1259(正元元年)、1303(嘉元元年)、1413(応永20年)、1573〜1591(天正年間) |
火災の記録が「熊野大社史」に記されている。→(学頭別当坊
證誠寺の火災) |
| 1598(慶長3年) |
上杉家の領地となる。宮内宮沢城(三桜城)に上杉の重臣尾崎氏が信州飯山から入る。金山平舘には越後平林から色部氏が入る。 |
| 1623(元和9年) |
代官安部右馬助により、宮内の町割りが行われた。現在の宮内のまちの骨格をなし、その後の発展の素地をつくった。町割り完了後、火災による被害を受けていた熊野大社を再建した。 |
| 1760(宝歴10年) |
北条郷11ヶ村の肝煎・百姓354人が”あおそ”への課税をめぐって藩と対立し、宮内熊野山に結集し、藩に訴える事件があった。 |
江戸時代の熊野大社
安部右馬助が熊野大社を北条郷33ヶ村の総鎮守として定めた。上杉家が社領として50石を与えていたが、上杉家の減封により熊野の社領も半分の25石になった。このため維持には一般民衆の信心協力がより一層必要となり、北条郷33ヶ村にわたる協力体制がとられた。北条郷を氏子とする、民衆の支持により熊野大社も繁栄した。宮内村は北条郷の郷頭であり、政治・経済中心として栄えた。 |