南陽市の水道のあゆみ

南陽市の水道の沿革

  • 50周年記念碑ー水は生命(昭和59年)
昭和9年 赤湯上水道創設  総事業費9万5千円
昭和28年 宮内簡易水道創設
昭和31年 和郷上水道創設
昭和35年 中川簡易水道創設
     ※簡易水道⋯計画給水人口が100人以上5,000人以下の
           水道事業
昭和42年 南陽市制施行
昭和43年 渇水による断水で自衛隊が給水応援
     新上水道建設計画(南陽市全域に亘る)を策定
     事業期間:昭和44年~昭和48年(5ヵ年)昭和49年3月
          完成
     総事業費:14億8百万円
昭和46年 最上川(長井市)を水源に1日最大12,000㎥/日で給水開始
昭和48年 小滝簡易水道竣工
昭和53年 置賜地域広域的水道整備計画(昭和54年3月)を策定(県営事業)
     (米沢市、南陽市、高畠町、川西町 2市2町)
     水窪ダム建設
     事業期間:昭和53年~昭和58年(5ヵ年) 昭和59年3月完成
     総事業費:111億89百万円

昭和58年 置賜広域水道より受水を開始  1日最大給水量16,822㎥/日に
昭和57年 第1次拡張吉野地域全域
昭和59年 南陽市上水道事業施行50周年の記念碑を赤湯町上水道創設ゆかりの地、鳥上に建立

昭和63年 第2次拡張金沢・松沢地域全域
平成2年 南陽市水道庁舎完成
平成19年 老朽化により最上川浄水場(長井市)閉鎖
     宮内新配水池(7,000㎥)完成(県水全量受水 水窪ダム+綱木川ダム)
平成20年 第3次拡張川樋大洞地区
平成28年 小滝簡易水道事業を水道事業に経営統合

(令和6年6月7日更新)

水分神社の由来

 南陽市出身で大蔵大臣や日銀総裁等を歴任された結城豊太郎(1877~1951)が、私財を投じて整備し、水道事業発祥の地として知られる赤湯鳥上地内の旧赤湯町上水道水源地跡に水分(みくまり)神社が鎮座しています。
 南陽市(旧赤湯町)の上水道第1号が完成した昭和9年11月10日に同地で竣工式が実施されました。
 「南陽市史(下巻)」の記述によると、赤湯町は昔から恒常的に飲料水に乏しく、山麓の湧水や吉野川の伏流水を家まで引き入れたり、手桶で汲んで運んだりして飲み水として利用していました。
 このように水が乏しいことが災いし、ひとたび火災になると手の施しようがなく、明治以降二度にわたって町の大半を焼失する大火に見舞われ、さらに伝染病が発生すればたちまち蔓延して多くの犠牲者が出るような状況でした。

昭和6年秋、たまたま法要のため帰郷していた結城豊太郎(当時日本興業銀行総裁)が、丸森與五右衛門(昭和8年~17年まで赤湯町長)から水不足で苦労している郷里の人々の状況を聞いて胸を痛められ、総工費9万5千円※1の三分の一を寄贈して同地内を水源地とする赤湯町第1号の上水道を完成させたもので、歓喜した町民らは提灯行列で竣工を祝い、浄財を出し合って水分神社を建立し、町上水道の安定供給を祈願したと伝えられています。
 後年、結城豊太郎揮毫の※2「飲水(いんすい)貴地脈(きちみゃく)」の碑と※3「伴宜久酬(ばんよろしひさしくしゅう)恩(おん)碑(ひ)」が水分神社の傍らに建立されました。

 水分神社では、毎年5月20日の同社例祭に合わせて、今年1年間の工事の安全祈願も含めて祭事を行っており、先人の遺志を継ぎ、安全で安心な水を供給できるように、上下水道事業の安全振興を祈願しています。



※1 総工費9万5千円⋯現在の貨幣価値で2億円~2億4千万円ほど
※2 「飲水貴地脈」⋯禅語のことばで「水を飲むとき、その水が湧き出る地脈の貴さを知る」の意味
※3 「伴宜久酬恩碑」⋯伴宜(ばんよろし)1871~1935福井県出身 。結城豊太郎の尽力により赤湯町へ派遣された水源調査専門技師で鳥上地内に水源を発見した。石碑は伴宜の恩に永く感謝するの意

(令和6年6月7日更新)
  • 飲水貴地脈
  • 伴宜久酬恩碑